きっとまた見失うけれど
僕は知らないけど世の中とか日常というものはきっともっと美しい側面を持っているんだろう。
しかし特に最近身の回りのほぼ全てに嫌気がさす。汚く歪で醜いようなものに視線を奪われやすい体質らしい。
行動することの美しさより最近は。
行動しないことの美しさ。
無駄の美学 余白 余裕 ゆとり
そういうものに強く惹かれている。
無駄にも余白にも意味がある。
詰め込むことで失うものがある。
そしてもちろんその逆も存在する。
しかし社会という漠然とした枠組みの中では「余白の美学」「無駄の意味」というものは排除されやすいもののような感じがする。
これはどちらが優れているという話ではないが。
あなたの無駄にも余白にもその逆の詰め込みすぎたような日々にも僕はとても興味がある。
嫌気がさしてばかりの生活を思い返してふとこんなことを思った。
僕は一人でいることが一番向いていると思っている。しかし一人でいたいとは思えないのだ。
結局僕の生活というものはどうあがいても他人が介在する。
その他人が友人であったりスーパーの店員であったり好きなミュージシャン 女優 アイドル モデルはたまた恋人だったりするのだろう。
難しくて嫌な世の中だ一人じゃ誰も生きていけないだなんて。
僕も君もきっとそうなんだ。
だから僕はその関係が妥協のようなものにならないようにしたい。
誠実に人と向き合うということについて僕は過去にツイッターのアカウントでずっと言及していたが、それが正しいのかはわからない。
そしてその結果離れていってしまった人もいたような気がする。
謝罪をするべきなのか僕と離れられて良かったと伝えるべきなのか迷ったがどちらも自己満足でしかないのでやめておこう。
ただ信じて欲しいのは僕は君たちに誠実でありたい。たくさん間違えてしまうけれど。それが美しいと思っているから。
僕は美しくありたい。
結局到着点は自分のメリットになってしまった。
これは自己愛か否かそんなことばっか考えてしまって自分ってすこし笑えてくるな。
そんな僕の日々を綴り人前で演奏した曲が三曲ある。
灰色の虹
ガーベラ
嘘とオレンジ
これらはきっと僕自身なんだろうな。
少ないし自分勝手だし迷惑だとは思うけれどあなた達に僕を委ねてしまった。
そしてさらに今僕は僕がうまく見つけられない生の理由を僕の音楽を聴いてくれた、そして僕と関わってくれたあなた達に委ねようとこのブログを書いてしまっているのかもしれない。
ただそこに責任は生じないので心配しないで欲しい。
心の底から美しいと思う友人がいる
その彼のことや憧れのミュージシャンのことを考えたら曲が書けた。
吟遊詩人はされど往く
というタイトルになりそうだ。
吟遊詩人も戦士も受験生もコンビニの店員もニートも君もそして
僕が心の底から美しいと思う未来のプロレスラーも。
されど往くのだ。
ありがとう 愛しています。
いつか君の前で歌うために。
社会不適合者もされど往く。