ナイショの話 クラリスみたいだね。

京王線で大きな事件があったみたいですね。怪我人も出て、重傷者も一人。

悲しい事件です。

みんなもきっと不安な気持ちになったと思います。僕自身、だれか知り合いがその電車に乗っていなかったかな?ととても心配な気持ちになりました。みんな無事ですか?不安です。

ここまでは隠す必要のない正常な反応だと思うのですが、ナイショの話はここからです。


こんな事件があると僕はついつい身内の次に、犯人が心配になってしまいます。「どんな精神状態だったんだろう?」とか犯人とされる方が生来持っている生きづらさなどに。ある種同情してしまいます。

そして僕の中では明確にその事件に関わっている人の重要度が

知人、友人>加害者>他人

という順位づけになっているのを今回強く感じました。


そして今の時代はすぐにSNS等犯人に対する怒りが囁かれます。それらに対して僕は犯人を責める気持ちになれていないためか、どこか自分がおかしいのじゃないかという気持ちや自分が責められている気持ちになります。

自意識過剰なだけなのですが。


しかし世の中犯罪者に対する攻撃意識、それを持つことへの同調圧力や空気感というの感じて、僕は怯えています。

彼がそうならずにすんだ社会構造や枠組みを作ることはできないのだろうか。

私たちは運がいいから犯罪に手を染めずに済んだいるだけじゃないのだろうか。

そんなことをいつも思います。

もちろん身近な人が被害にあったりしたら考え方は変わったりするのだろうけれど。


事件の被害者加害者という構図は瞬間を切り取りすぎだと思います。全員が加害者であり、その中でたまたま運が悪かった人が事件を起こした。そんな可能性を無視したくないです。


もう少しだけでも事件を起こした方達に歩み寄れたらいいなと思います。


この文章を読んで不快になった方は申し訳ありません。

皆さんの無事を願っています。


自分は勉強が足りないので皆さんの気持ちや考えも教えて欲しいです。

僕はいつか自分が加害者になると感じています。