最強
最近ついつい女の子(女性)の方が歌っている音楽ばかり聴いてしまいます。(おじさんがプロデュースしているものもありますが)
Aiko.坂口喜咲.山下久美子.アカシック.放課後ティータイム.等
各アーティスト雰囲気や個性に違いはありますが、自分の好みというものはある程度傾向があり、聴いている中で、自分が女性アーティストに対して①絶対的な真理や②傷、を提示してほしいと思っていることを感じました。(例1、ケーキは甘くてめちゃめちゃ美味しい!)(例2、失恋、裏切られた体験)
そう言ったものに心揺さぶられます。
そう言ったものを提示された時にいつも
「男にこんなことは言えない!女の子は最強!!最高だ!」
と感じており、証明はできないのですが、それはある種男性の社会的優位性のパブリックイメージから起因しているのではないかと考えます。
②に関していえば自分はなんとなく浮気や不倫は男性がするものだというイメージがあります。(一概にそうではないのであくまでイメージの話なのですが...)
そのためそう言った折に受ける心の傷を表現の場で提示されると、この表現は男が同様のそれをしても意味がないと感じるのです。(自分は傷をつける加害者であるため)この女の子だけが用いることができる表現、言葉に僕達は女性の最強性を見出しているのではないかと感じます。
(①に関しては考察不足ですが社会的優位性による油断、またはリアリズム信仰のようなものが結びつき、ある種、我々が求めている幻想を言葉にすることを冷笑するようなニュアンスと憧れが、最強性に結びついているのではないでしょうか。)
女の子だけが用いれる言葉や表現に最強性を見出しています。(2度目ですね)
しかしそれが女性の社会的立場の弱さから起因しているとしたらこの最強性というのは男性による暴力だと思います。(自分は男なのでわからないですが、女性は男性だけに感じる素敵な部分というのがあるのでしょうか?)
もし仮にそうなのであるとすれば、男性は女性を最強から解放しなくてはいけません。
この現状は差別であり、搾取です。
これは自分が感じるパブリックイメージだけに起因した考えなのですが。
少なくとも現状女性たちは男女同権、平等を訴え、立場の改善を求めています。(方法は様々ですが)
それに立ち向かう姿に男が感動するのは違うんじゃないかと思う一方で、美しいと感じます!
本気で!女性は最強だと思っています!!しかしその気持ちの理由の一因としてこのような状況が複雑に絡まっているのではないでしょうか。
僕が気持ち悪いだけならばいいのですが...
どちらにせよ他者に最強を求めることは無責任ですね。辞められないとは思うのですが...
僕の暴力性、搾取、何かを好きな理由いつも不安になります。
手と手を取りあって一緒にいられるでしょうか。
僕は赦されているのでしょうか。また赦せるのでしょうか。誰もが赦し、赦されるのでしょうか。
今aiko聴いて最高だと思っていたのに突然躁鬱みたいになってしんどいよ〜( ; ; )
ナイショの話 クラリスみたいだね。
京王線で大きな事件があったみたいですね。怪我人も出て、重傷者も一人。
悲しい事件です。
みんなもきっと不安な気持ちになったと思います。僕自身、だれか知り合いがその電車に乗っていなかったかな?ととても心配な気持ちになりました。みんな無事ですか?不安です。
ここまでは隠す必要のない正常な反応だと思うのですが、ナイショの話はここからです。
こんな事件があると僕はついつい身内の次に、犯人が心配になってしまいます。「どんな精神状態だったんだろう?」とか犯人とされる方が生来持っている生きづらさなどに。ある種同情してしまいます。
そして僕の中では明確にその事件に関わっている人の重要度が
知人、友人>加害者>他人
という順位づけになっているのを今回強く感じました。
そして今の時代はすぐにSNS等犯人に対する怒りが囁かれます。それらに対して僕は犯人を責める気持ちになれていないためか、どこか自分がおかしいのじゃないかという気持ちや自分が責められている気持ちになります。
自意識過剰なだけなのですが。
しかし世の中犯罪者に対する攻撃意識、それを持つことへの同調圧力や空気感というの感じて、僕は怯えています。
彼がそうならずにすんだ社会構造や枠組みを作ることはできないのだろうか。
私たちは運がいいから犯罪に手を染めずに済んだいるだけじゃないのだろうか。
そんなことをいつも思います。
もちろん身近な人が被害にあったりしたら考え方は変わったりするのだろうけれど。
事件の被害者加害者という構図は瞬間を切り取りすぎだと思います。全員が加害者であり、その中でたまたま運が悪かった人が事件を起こした。そんな可能性を無視したくないです。
もう少しだけでも事件を起こした方達に歩み寄れたらいいなと思います。
この文章を読んで不快になった方は申し訳ありません。
皆さんの無事を願っています。
自分は勉強が足りないので皆さんの気持ちや考えも教えて欲しいです。
僕はいつか自分が加害者になると感じています。
主張ができない。馬鹿なので。
僕はいかんせん主張というものができない。
昔はもう少しできた気がするのだが年々できなくなっている。
そもそも主張とはなんだろうか。
辞書で調べてみるとそこには
「自分の意見を他者に認めさせようと強く言い張ること」
らしい。これは困った難敵だ。
つまり
「僕はチョコレートが好きだ!」
こういう発言は主張になっていないのではないか?いや?言い張って周囲の人々が
「あいつはチョコレートが好きらしい」
と思ってくれればこれは主張になるのだろうか?わからん
ただこれが主張になったとしても僕はそれすらできないのだ。
なぜかというと僕がかりにチョコレートを愛していたとして、それを他者に認めさせようという気持ちが僕にはあまり存在していない。
これはラフな例だが。しかしこの世にはもっと無数の複雑な主張が無数に存在しているだろう。
最近だと「ポテトサラダくらい作ってやれ」という主張と「そういう主張は子育ての辛さを知らないからできるんだという主張」
今SNS上ではこのふたつの主張がザックリとだが善?と悪?に分けられている。
前者の意見は悪で 後者の意見が善だ。(僕の見た範囲では)
しかしどうだろうその「悪」とされている主張をした人物の幼少期の家庭環境が仮に ネグレクトとや暴力を受けていて食事は全てインスタント。酷いときには泥水をすすって生きていた。としたら子に総菜を与える母によってトラウマを呼び起こされそのような主張をしてしまうということは、情状酌量の余地があるのではないだろうか。(そうだとしても自己保身の側面というのは大きいし、お節介であることには変わりないのだが。)
話しがずれた気もするがこのように主張とはなんにでもバックグラウンドというものが大きく関係してくるだろう。しかしそれが発されたとき我々には相手のバックグラウンドにまで知ることをせずにそれを良しとするか悪とするかを判断してしまうということはよくあることではなかろうか。(実際僕もポテトサラダを作れと主張した人のバックグラウンドには毛ほども興味がない。)
主張をすること、肯定すること、否定することは密接に「知る」ことと結び付いている。その時僕は自分の中に意見というモノが生まれたとしてもこれを他者に理解させようという欲望も湧かないしその意見の良し悪しを判断されたくもないためそれに関する情報を知りたいとも思わない。意見を主張するためには「知る」というステップをふまなければならない。しかしその過程で始にに抱いていた感情は少しづつ論理的なものに整理されて変化していく。それは洗練されるといってもいいのかもしれないが。重要なのはそこではない。「変化」だ。
僕はこの主張への変換作業で起こり得る「変化」が非常に恐い。
自分の感じたものが手垢にまみれ別のモノに変化してしまう恐怖。「純粋」ではなくなるということが恐い。
さらに単純に「知る」ことにはとんでもないエネルギーが必要である。自分の意見にとって都合の良いことも悪いことも全て調べなければ主張というものは価値のあるものにならない。だから僕は主張が出来ない。
意見と主張の一致というのはとても難しい。
そして僕は自分に似た奴に甘いので主張に高いハードルを感じているひとはしおらしいくて素敵だなとおもう。感覚的に主張にはそれだけに止まらない欲望のようなものも多々感じる。(気のせいかもしれないが)
そういう欲望からはできるだけ遠い場所にいたい。
「主張」をするからには傷付くことを躊躇ってはいけない。
それは心無い反対意見などで傷付くことではなく、自分の無恥を自覚することや様々な欲に巻きこまれてうまれる傷。
しかし僕にはそんなのは耐え難い。
「犯罪は悪だ」ということを主張することすらできない。
これを主張するには善悪を学ぶことからはじめなくてはならない。
さらに主張は主語が大きい場面がおおすぎる。それもまた僕に主張ができない要因の一つだ。(女性は、男性は等)
男性の立場も女性の立場もどうでもいい。代弁者気取りはムカつく。
ただ目の届く範囲にいる僕が大切だと思う人たちにはそういう大きな主語じゃなくていいから、もっと自分個人としてだけの欲望や意見を大切にして欲しいと思う。
ぼくにとってそれは社会、倫理観や道徳よりも重い。
だれもわかってくれなくていいけど。
言いたいことはいつも生まれては行き場を無くして消えていく。
淋しさから遠くへ。
これは別に大した話ではない。
別に悲しくもない。
僕は時折全てのものへの興味、執着を失いたいと思うことがある。
音楽、アニメ、漫画、本、衣食住、人 etc...
それはなぜかというと単純な話で、感情が揺り動かされるときそれはいつも不可避であり、「淋しさ」「悲しさ」を否応なしに感じてしまうからだ。もちろん(プラスの感情も)
しかし何となく日常で強く意識するものは「マイナスの感情」のほうなのである。(個人差あり)
だから僕はもうそういうものを感じたくないから全てへの興味がなくなればいいと思った。
もしくは「悲しみ」や「淋しさ」に慣れてしまいたいとも思う。
当たり前になったそれらを、当たり前のこととして受け入れる。
そしたらそれらを回避できるかもしれない。
そんな風に考える。
死にも理不尽にも離別にも諍いにも心を揺さぶられない。
感情を刺激されなくなれば僕のこのどうしようもない感情は処理できるのではないか。と思う。
だけどこのことを考えているときにいつも思うのが、僕が望むそれは何よりも「淋しい」状態であり何よりも「悲しい」状態ではないだろうか。
これは三人称視点だから感じることかもしれなくて、当事者となったらそんなことはないのかもしれない。
でも少なくとも今の僕は君が死ぬのが悲しくなかったら悲しいように思うし、淋しくなかったら淋しいように思うのだ。
馬鹿な僕が考えた馬鹿な解決策は自分が「ソレ」の一番近くに到達するということ、あるいは「ソレ」になろうとすることなのかもしれない。
それは何かが違うのかもしれない。
僕はもうだいぶ飽きてきたからそうなるのも悪くないかもしれないが。
人間はすべて醜い。くだらない。大嫌い。
だけど感情に素直になり向き合う瞬間はほんの少しだけ美しいかもしれない。
くだらない僕らは何もない朝にもちゃんと目を覚ます。
意味のないものから意味を探しに動く。
遠くない未来僕は「淋しさ」や「悲しみ」そのものになってしまうかもしれないが。
ふとそう思っていたことを書き残してもいいかもしれないと思った。
今の僕は君の淋しさや悲しみが少しだけうれしいよ(笑)
目を閉じたら最後。
気付いた、そしてわすれるな。
僕は君より君との「愛」を大事にしようとする。
君よりも君との「関係性」を大事にしてしまう。
これは愛しているものが自分か他者かという決定的な違いがある。
忘れてしまえば楽になれる。もしかしたらこの世の人たちはそんなこと気にも留めないし許してくれるかもしれない。
だけど僕はきっとずっと許せない。いつだって自分がかわいいなんて、ヒーローには程遠い。
だけど僕はいつだって、誰も愛せないし、自分しかかわいくない。
忘れるな、忘れるな。
自分が屑で芥だということを。
忘れたときが僕の最後だ。
自分を呪うことでしか君と向き合えないけれど。
ロマンティックからさらに離れてしまわぬように。
目を閉じたら最後。
オタクのご要望にお応えして
遅れましたがあけましておめでとうございます。クボチャソです。
去る2019年12月27日に無事シアトルから日本へと帰国し、今に至るまで日本を満喫しております。しかしこれから大学が始まるまでの間 バイト三昧になります。しかし皆さんぜひ遊んでください。
富士山 from 飛行機✈️
10ヶ月ぶりのきくち
12/30弾丸浅草
2020年はついに20歳になる年であります。今までバカ真面目に酒を一滴も飲んでこなかった僕もついに飲酒を解禁します。ただ僕は記憶がなくなるほど飲むようなバカは嫌いなので嗜む程度に抑えたいと思います。
今年はぜひ全国を旅したいです。アメリカにいるときにできたひとつの夢です。全米より簡単でしょ?
そのうちさぼりにサボった旅ブログをあげようと思うのでまた次回💁♂️
ダサい、ダサすぎる。
東京の祖母に送るためにいやいや夕方撮らされた
いまの僕の夢ですか?
スーツなんかたまにしか着ないからネクタイの結び方なんかわかんねぇよw
って感じの職業に就くことです。