主張ができない。馬鹿なので。
僕はいかんせん主張というものができない。
昔はもう少しできた気がするのだが年々できなくなっている。
そもそも主張とはなんだろうか。
辞書で調べてみるとそこには
「自分の意見を他者に認めさせようと強く言い張ること」
らしい。これは困った難敵だ。
つまり
「僕はチョコレートが好きだ!」
こういう発言は主張になっていないのではないか?いや?言い張って周囲の人々が
「あいつはチョコレートが好きらしい」
と思ってくれればこれは主張になるのだろうか?わからん
ただこれが主張になったとしても僕はそれすらできないのだ。
なぜかというと僕がかりにチョコレートを愛していたとして、それを他者に認めさせようという気持ちが僕にはあまり存在していない。
これはラフな例だが。しかしこの世にはもっと無数の複雑な主張が無数に存在しているだろう。
最近だと「ポテトサラダくらい作ってやれ」という主張と「そういう主張は子育ての辛さを知らないからできるんだという主張」
今SNS上ではこのふたつの主張がザックリとだが善?と悪?に分けられている。
前者の意見は悪で 後者の意見が善だ。(僕の見た範囲では)
しかしどうだろうその「悪」とされている主張をした人物の幼少期の家庭環境が仮に ネグレクトとや暴力を受けていて食事は全てインスタント。酷いときには泥水をすすって生きていた。としたら子に総菜を与える母によってトラウマを呼び起こされそのような主張をしてしまうということは、情状酌量の余地があるのではないだろうか。(そうだとしても自己保身の側面というのは大きいし、お節介であることには変わりないのだが。)
話しがずれた気もするがこのように主張とはなんにでもバックグラウンドというものが大きく関係してくるだろう。しかしそれが発されたとき我々には相手のバックグラウンドにまで知ることをせずにそれを良しとするか悪とするかを判断してしまうということはよくあることではなかろうか。(実際僕もポテトサラダを作れと主張した人のバックグラウンドには毛ほども興味がない。)
主張をすること、肯定すること、否定することは密接に「知る」ことと結び付いている。その時僕は自分の中に意見というモノが生まれたとしてもこれを他者に理解させようという欲望も湧かないしその意見の良し悪しを判断されたくもないためそれに関する情報を知りたいとも思わない。意見を主張するためには「知る」というステップをふまなければならない。しかしその過程で始にに抱いていた感情は少しづつ論理的なものに整理されて変化していく。それは洗練されるといってもいいのかもしれないが。重要なのはそこではない。「変化」だ。
僕はこの主張への変換作業で起こり得る「変化」が非常に恐い。
自分の感じたものが手垢にまみれ別のモノに変化してしまう恐怖。「純粋」ではなくなるということが恐い。
さらに単純に「知る」ことにはとんでもないエネルギーが必要である。自分の意見にとって都合の良いことも悪いことも全て調べなければ主張というものは価値のあるものにならない。だから僕は主張が出来ない。
意見と主張の一致というのはとても難しい。
そして僕は自分に似た奴に甘いので主張に高いハードルを感じているひとはしおらしいくて素敵だなとおもう。感覚的に主張にはそれだけに止まらない欲望のようなものも多々感じる。(気のせいかもしれないが)
そういう欲望からはできるだけ遠い場所にいたい。
「主張」をするからには傷付くことを躊躇ってはいけない。
それは心無い反対意見などで傷付くことではなく、自分の無恥を自覚することや様々な欲に巻きこまれてうまれる傷。
しかし僕にはそんなのは耐え難い。
「犯罪は悪だ」ということを主張することすらできない。
これを主張するには善悪を学ぶことからはじめなくてはならない。
さらに主張は主語が大きい場面がおおすぎる。それもまた僕に主張ができない要因の一つだ。(女性は、男性は等)
男性の立場も女性の立場もどうでもいい。代弁者気取りはムカつく。
ただ目の届く範囲にいる僕が大切だと思う人たちにはそういう大きな主語じゃなくていいから、もっと自分個人としてだけの欲望や意見を大切にして欲しいと思う。
ぼくにとってそれは社会、倫理観や道徳よりも重い。
だれもわかってくれなくていいけど。
言いたいことはいつも生まれては行き場を無くして消えていく。