「豆電球」と「ぼんやりすること」の親和性が高いことが分かった。成人おめでとう。 

別に書くこともないが暇なので記事を書こうと思った。

 

今日の晩御飯は角煮を作ったが、買ってきた豚の脂身が多すぎて1つ食べたら胃もたれになり、残ったものをどうしようか考えている。

虚しさを感じるのも、やるせなさを感じるのもきっと僕だけじゃない。

あまりに平凡な営みに人より脳のリソースをとられるらしい。

言いたいことを言うにはあまりに自分は頭が弱すぎて、自信がないのでいつも意味の分からない文章になるというのは生活の中でまぁまぁなハンデになっている気がする。

ロックンロール SEX 暴力 紋切型

そういうのには興味がない。

人と違うものを選ぼう。そんなつもりだってない。

勤勉、まじめは素晴らしい。 

そう思えたらもっと素晴らしい。

メメント・モリ 人生は愛と死

薄っぺらい理解ながらそう思う。

天邪鬼な毎日はひどく空虚なんだと思う。

もうほぼ朝だろって時間に書いてるブログ、悪くはないが別になにもない。

君に決して届かない歌を歌う。臆病さの現れ 少しの悲しみをはらむ

探してるものが見つからない。 焦り

探しているものがわらかない。empty

君に愛を 僕に死を 

一人でも君たちと生きていけるだろうか。

「君」という単語を使うときもひどく焦る。

この単語は何となく有機物も無機物も指すように使っている。

外は明るい。

本を読もう。映画を観よう。音楽を聴こう。そういうものは僕にとって目的にはならない。

今感じるのは身の回りのほとんどのものの手段化ということ。

僕にとってのロックンロールはいたずら心とやるせなさと愛。

君のもとへ行くのにあと何年かかる

僕は悲しみや自分のくだらなさと向き合うのが嫌いじゃない。

これはきっと僕の個性。

それもいつか無個性に収束される。

もう個性とか考えるのは馬鹿らしいことなのかもしれない。

諦めることと何かを選ぶことって同じ意味だと思ってしまう。

道徳から少しはみ出そう。

殺せるものなら殺してみろ。

そういう極端なのはやめなくちゃいけないのかもしれない。

「当たり障りない言葉で どうでもよくなる夜遊びを

 馬鹿だなって僕は 使い古した言葉で 

 終わるまでの時間は 君をだまし続けるよ」

「口約束でつなぎとめる 勘違いが 癇に障る」

「すべて嘘だったなんて 言うつもりもないけど

 間延びした僕らに 終わりをつげなきゃ」

これは僕が今までかいた稚拙な歌詞の一部。

僕はどこからきて。どこへ行くのか。

血っていったい何なのか。

頭のなかはグチャグチャで物書きにはきっと向いていない。

ひげだんの「pretender」を自発的じゃなく街できく。

世界線」というワードオタク臭さがすごい。

中学の時担任に借りたシュタゲの小説を借りパクしてるのを思い出した。

別にこの曲は好きでも嫌いでもない。どうでもいい。

友達がほぼいないからこそ数少ない「君」との関わりのことをいつも考える。

焼肉食べたいとかも考える。

成人式。きっとめでたい人にはめでたい。おめでとう。

SNSでみんなの晴れ舞台を観れてよかったなという気持ちと、まだ成人式のことアップすんのかよという気持ちが入り乱れている。

おめでとうみんな。好きな人も嫌いな奴も。

誰も皆幸せにならなきゃね。

孤独は一生消えないかも。

君と話せてよかったて思ったり、お前なんかと話してたまるかって人並み以上に強く思ったりする。

ありがとうと云うのもむかつく。

ありがとう。(これは心がはちきれそうになりながら打った)(感謝できる人間でありたいという欲求の現れ)